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徒然日記「多事某論」 楽天支部

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チベット問題に関する資料

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所によれば米国務省の「世界の人権状況」2002年次報告は以下のように報告している。
米国務省発表 「世界の人権状況」2002年次報告(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
報告書は、中国当局が、ダライ・ラマの特使の訪中と、報道陣や外国高官によるチベット地域における立ち入り区域の拡大をにらんで、7 人のチベット人政治犯の早期釈放を実現したこと(2ヵ月間から 12年間の減刑)を評価している。

2002年次報告に記載されている状況は、以下のとおりである。

● チベット人の信仰の自由に対する弾圧の程度は、深刻なままであった。
● 罪状を認めようとしない政治犯たちは、拷問やその他の肉体的虐待の被害を受けていた。
● 法的予防措置の内容、その適用方法とも不適切である。裁判官の大半はチベット人であるが、司法に関する教育はほとんど、あるいは、まったく受けていなかった。
● 政治的権限の多くが与えられ、主要な決定を下すのは中国人であった。
● 移動は制限され、パスポートの取得は、ますます困難になった。また、ネパールからチベットへ戻るチベット人、特に僧侶は、専断的な拘留に直面していた。
● ダライ・ラマの写真を公に飾ることは、相変わらず禁止されていた。
● 僧、尼僧に対する愛国的な教育活動は定期的に実施され、多くの僧院、尼僧院は徹底的に破壊された。
● ダライ・ラマの生誕祭は、規則により禁止された。
● 政府は、僧院施設が現地の資源を無駄に消費し、チベット亡命社会から侵入してくる政治犯の巣窟として機能していると主張し、管理の手を緩めようとしていなかった。
● 高まる緊張の中、ラマ僧の生まれ変わりを探し出し教育を受けさせる活動を取り締まろうとする当局の規制は強化された。
● 第 11 世パンチェン・ラマの無事を確認し、近況を確認するため、繰り返し求められる面会が却下され、彼の肖像画を飾ることも禁止された。
● 政府主導の開発事業、および経済機会の予想により、チベット人以外の人口が急激に増加した。
● チベット人に対する職業的な不平等が報告された。また、各地における労働権利も否定された。
● UNESCOが保護するラサの繁華街の地域が破壊された。
● チベット人の子供たちの栄養不良が蔓延している。
● チベット人教員に現地の教育システムを教えるために設立されたチベット大学における、中国人学生、および教員の総数は、人口比をはるかに上回っていた。
● 売春は、拡大しつつある問題で、HIVS/AIDS の発生率は比較的高いと考えられている。
● インドで教育を受けたチベット人の雇用者は、観光産業においては特に、このような従業員を解雇するよう圧力を受けていた。
● ラジオ・フリー・アジアは、チベット人が外国語放送を聴視した場合、罰金の対象になると脅かされていることを報じた。
さらにこう結ばれている。
「社会、政治の抑圧的な管理は、チベット民族の基本的自由を制限し続け、チベット独自の文化、信仰、言語の遺産が損なわれるという危機的状況を生み出してきた」


中国国務院新聞弁公室の「チベット」によれば中共政府は以下のように発表している。
チベット(中国国務院新聞弁公室)
40年前のチベットの民主改革
1959年に実施され始めた民主改革は、チベット現代史上の大きな出来事である。それはチベットの発展と進歩にかかわり、チベットの人口の圧倒的多数を占める百万の農奴が暗黒な封建農奴制の束縛から解放され、チベット社会の主人公となることができるかどうかにかかわっている。歴史が立証しているように、チベット民主改革は広範なチベット人民の利益に合致する、人類の人権獲得史上の壮挙である。

(略)

民主改革後、四、五年の安定した発展を経て、チベットの経済と社会・文化事業はいずれも大きな進歩を遂げ、末端政権の建設と幹部養成もチベットの一層の発展のために基礎を築き、チベットで民族区域自治を実施する条件が成熟した。1965年、チベット自治区準備委員会は国務院に報告し、全国人民代表大会常務委員会の認可を得てから、1965年9月1日にチベット自治区第一回人民代表大会を開き、チベット自治区を正式に発足させた。解放された農奴と奴隷の代表を主とし、各階層の愛国人士の代表が参加した代表大会は、憲法の規定に基づいて民族区域自治の職権を行使し、自治区の指導機関を選出し、チベットが社会主義の繁栄と隆盛の道を進む青写真を作成した。チベット自治区の成立は民主改革の勝利の成果である。


亡命チベット人によるNGO組織『グチュスムの会』によれば、良心の囚人は1000名を超え死者は判明しているだけで170名とされる。
そのうち写真とプロフィールが判明しているのは以下の通り。
チベット人良心の囚人23人のプロフィール(Lung-ta Project)
今現在1000人近い近い良心の囚人がチベットにいると言われています。以下は写真を入手することができた者のうち、23人を選んで載せてあります。

チベット独立運動による死亡者リスト(Lung-ta Project)
1987年から1998年の間に亡くなったチベット人のリストです。集めた約170件の中から、名前、住所等がはっきりしているものだけを70件選んであります。



アムネスティ・レポート 世界の人権 2003(中国)によれば中国全体とチベットに関する人権問題について以下のように報告している。
アムネスティ・レポート 世界の人権 2003(中国)(アムネスティ・インターナショナル日本チベットチーム)
中華人民共和国 PEOPLE’S REPUBLIC OF CHINA

首都:北京
人口:12億8500万人
公用語:中国語(北京語)
国家元首:国家主席江沢民
政府首班:首相朱鎔基
死刑制度:存続
国際刑事裁判所:未署名

深刻な人権侵害が続いており、状況がさらに悪化した面もある。表現、結社、信仰の自由に関する権利を平和的に行使したことにより、引き続き数万人が恣意的に拘禁されまた投獄された。拘禁刑判決を受けた者もいたが、多くは起訴も裁判もなしに行政拘禁されている。2001年4月に始まった犯罪撲滅キャンペーン「厳打」は1年間延長されることとなった。入手できた暫定的な統計によると、この取り締まりの結果不公正な裁判によって少なくとも1921人が死刑判決を受け、1060人が処刑された。拷問・虐待は依然として蔓延しており、「厳打」のため増加していると見られる。この犯罪取り締まりは、新疆ウイグル自治区の「民族分離主義者」、「テロリスト」、「宗教的過激派」として非難された人びとや法輪功修行者などにも及んでいる。またインターネットの利用を取り締まる法律も導入された。労働争議が増加して、しばしば過剰な力の行使や恣意的拘禁を受けた。新疆ウイグル自治区では、主にイスラム教徒の少数民族ウイグル族の文化的・宗教的権利に対する規制が強まっている。
チベットでは、7人の良心の囚人が刑期満了前に釈放されたが、表現や信仰の自由は厳しく制限されたままである。

(中略)

チベット自治区とその他のチベット地域
ガワン・チョフェル、ジグメ・サンポ、ガワン・サンドルを含む7人の良心の囚人が釈放され、中国当局と亡命チベット政府代表者との会見が行なわれるなど、チベットの反体制派に対する当局の姿勢に変化のきざしがみられた。しかし、表現・信教・結社の自由は依然として厳しく制限されている。僧院や尼僧院が破壊され、僧侶や尼僧が追放された。12月には、近年で初めて、政治犯罪容疑によりチベット人に対する死刑判決が下された。僧侶や尼僧など180人以上が依然として基本的人権を侵害されたまま拘禁されており、恣意的拘禁や不公正な裁判も続いている。被拘禁者の拷問・虐待が報告されており、被拘禁者の多くは刑務所の過酷な状況のなかで健康を害している。
12月、チベットの高名な宗教的指導者テンジン・デレク・リンポチェが、「分離主義を扇動」し「爆破事件を引き起こした」容疑で2年の執行猶予付き死刑判決を受けた。彼の従者ロプサン・トントゥプは、上記に加え「銃・弾薬の不法所持」でも有罪とされ死刑判決を受けた。彼らは4月の逮捕以降8カ月ものあいだ、隔離拘禁されたといわれている。この裁判は不公正であり、テンジン・デレク・リンポチェはこれまでの宗教的または地域的活動のために、不正に起訴されたのではないかという重大な懸念がある。



I Love TIBET! homepage…チベット・ポータルは以下のように報告している。
(中略)(I Love TIBET! homepage…チベット・ポータル)
チベットの何が問題?

チベットでは
こんなことが起きている

(中略)

●多くのチベット人が命を落とした
 穏やかな仏教徒であるチベット人ですが、ここまでされて、さすがに黙っているばかりではありません。反中国の抵抗運動が、中国に近い東チベットで起こり、全チベットに広まりました。数の上で太刀打ちできないチベット人は、もっぱら山間にたてこもってゲリラ戦を展開するしかありません。1959年にはチベットの都ラサで市民による大規模な反乱が起こりましたが、もちろん中国軍に鎮圧されてしまいます。ダライ・ラマ14世は、これ以上の戦いを避けるため、インドへ亡命せざるをえなくなりました。
 ダライ・ラマ14世がチベットを去った後、中国は中央チベットに「チベット自治区」を成立させ、着々とチベット支配を進めていきました。しかし、チベット人の中国への抵抗は根強く、中国に従わない者は容赦なく投獄されたり殺されました。
 もともとそれほど多くの人間を養うような肥沃な土地の少ないチベットに軍人などが急に流れ込んだために食糧事情が悪化し、大量の餓死者もでました。
 60年代から70年代にかけては、輪をかけて凄惨な「文化大革命」。チベット風の伝統はすべて否定され、「民主改革」を生き抜いたわずかな僧院も破壊されました。
 「民主改革」「文化大革命」を通して、中国による拷問や戦闘、餓えのために死亡したチベット人は120万人にのぼるという統計もあります。

(中略)

●緩やかに進む「民族浄化」
 人口が希薄なチベットに、人口過密な中国本土から大量の人口を故意に移動させる動きも盛んです。移住者は税金面で優遇を受け、高い給料をもらう一方、地元のチベット人から仕事を奪います。移住してきた中国人が食べる小麦をつくるために、遊牧民の土地が奪われ、急激に人口が増えたために、生態系が破壊されています。
 こうして中国人の数を増やしておいて、チベット人には産児制限を押しつけ、避妊や中絶を強制しているという報告もあります。
 このままでは現在「チベット族自治区」「チベット族自治州」などと名前がついている地域でさえ、チベット人が少数派になってしまうでしょう(すでに多くの地域でそうなっています)。ひとつの民族を物理的に抹殺してしてしまう「民族浄化」が、ゆるやかな形で確実に進んでいるといえます。そうすれば、いずれチベット問題という問題の対象じたいがなくなります……これが中国が求める「最終的な解決法」かもしれません。
 ダライ・ラマ14世は亡命して以来40年以上、国際社会にチベット問題を訴え続けてきました。しかし、状況はむしろ悪化しているような印象さえ受けます。中国軍による監視の目をくぐりぬけてヒマラヤ山脈を越えてインドやネパールに逃げてくるチベット人は(運良く逃げられた数だけで)いまも毎年2,000~3,000人にのぼります。



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